
政権を倒すことと制度をつくること
645年の乙巳の変で、中大兄皇子らは蘇我入鹿を殺し、政治を主導してきた蘇我氏の力を倒した。政権の担い手は変わったが、地方の土地や住民を把握し、税や労役を集める制度はまだ整っていなかった。大化改新と呼ばれる改革は、この政変をきっかけに進んだ国家の仕組みづくりまで含んでいる。
『日本書紀』は646年に改新の詔が出たと伝える。ただし編纂は後の時代で、記された制度には後の律令をさかのぼって描いた部分もあると指摘される。詔が伝える方針が、そのまま全国で実施されたとは限らない。実際に進めるには地方へ役人を置き、人々の記録を作って命令を伝える必要があった。
人を数え土地と負担を結びつける
戸籍には人の名とともに、住む場所や年齢、家族関係などを記した。その情報をもとに、土地を誰へ配り、どんな負担を求めるかを決められる。670年の庚午年籍は大きな節目だった。遠い村の人々も中央の役所が把握できるよう、記録を整える取り組みが進んでいた。
国司は中央から派遣され、郡司は地域の有力者から任じられた。地方の人々を一律に入れ替えたのではなく、従来の関係を新しい役職のもとへ組み込んでいる。現地で記録を作り、税を収める倉を管理し、命令を伝える人々がいた。法令を各地で実施するには、こうした役人と施設を整える必要があった。
701年の法令へ続く国家づくり
701年に大宝律令が成立し、刑罰を定める「律」と行政の基本を定める「令」が整えられた。乙巳の変からは数十年が過ぎており、その間にも戸籍や制度が作られていた。政治の方針を法令にまとめれば、役人や支配者が代わっても共通の基準を使える。645年の政変だけで、国家の仕組みが完成したわけではなかった。
制度の整備に伴い、人々は住む土地や身分、負担の区分ごとに記録された。農民が土地を耕すことは、税や労役を負うことにも関わる。宮殿で起きた権力交代の後、村と役所の関係も変わっていった。乙巳の変から詔や戸籍を経て法令が整うまで、改革は人々の日常へ及んだ。
前後の流れ
- 645年
乙巳の変で蘇我入鹿が殺される。
- 646年
史書が改新の詔を伝える。
- 670年
庚午年籍をつくる。
- 701年
大宝律令を制定。
言葉の意味
- 乙巳の変
- 645年に中大兄皇子らが蘇我入鹿を殺した政変。
- 戸籍
- 家族や人口を把握するための記録。税や行政の基礎になる。
- 律令
- 刑罰と行政の制度を条文で定める法体系。
史料から分かること
政変と律令の完成は同時ではない。
飛鳥資料館の年表が645年から701年までの段階を示す。
645年にすべての制度が一斉に完成したとしない。
改革は土地・人口・税の支配に関わった。
町誌が中央集権の方針と地方制度を説明する。
宣言された方針と全地域の実際の運用を同一視しない。
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参考資料
- 飛鳥資料館・世表奈良文化財研究所
645年の政変、646年の詔、670年戸籍、701年大宝律令。
- 遠賀町誌・奈良平安時代遠賀町
改新方針、中央と地方の支配、租税と律令への流れ。

