
測った道を地図の線にする
距離だけが分かっても、海岸線の形は描ける?

短い区間をつなぐと、道の曲がり方が見える。
距離と向きの両方が必要
道に沿って距離と方位を記録する。同じ長さを進んでも、向きが違えば着く場所は変わる。曲がるたびに記録を重ねることが、地図の線の材料になる。
商家の仕事から天文学へ
忠敬は1794年に家督を譲り、翌年から江戸で学んだ。1800年には東北と北海道南部の測量へ出発する。曲がった海岸線を地図に描くには、距離とともに進む方位を測らなければならない。測定をつなぐうちに重なる誤差は、星から求めた緯度などと照らして確かめた。徒歩の実測と天体観測を組み合わせた調査だった。
進んだ距離と方位が分かれば、前の地点から次の地点を図の上へ置ける。ただし、測り続ける間には小さな誤差が積み重なる。そこで天体を観測して緯度などを求め、地上の記録を別の基準で確かめた。星の観測だけでは道の長さは出せず、歩いた距離だけでも全国の位置は決まらない。それぞれの観測値を照合してずれを調整した。
距離と方位を測り星で位置を確かめる
測量隊には器具で測る人と、結果や道順を記す人がいた。測定値を地図にするには、どの地点の数字かをそろえ、前後のつながりを確かめて線と形にまとめた。香取市には器具と日記、地図が伝わっている。これらを比べると、旅先の測定がどう記録され、図へ仕上げられたかを調べられる。
全国測量は複数の隊員で進められた。1815〜1816年の伊豆七島の調査には、忠敬自身は参加していない。隊員が持ち帰った測定値と記録も地図にまとめられ、調べた範囲は本人の歩いた経路より広くなった。「伊能図」の名で知られる成果は、すべてを忠敬が一人で測り、描いた地図ではなかった。
死後にも続いた完成と保存
忠敬は1818年に没したが、調査の記録を組み上げる作業は続き、1821年に地図が完成した。大図・中図・小図は縮尺が異なり、一枚で見られる広さと細部の量も違う。大きな図をそのまま縮めるだけではなく、用途に合わせて残す情報を選んでいた。現地の測量を終えた後にも、こうした編纂の仕事があった。
国立国会図書館には伊能図の模写本も収められている。明治初期に写した大図は、全214枚のうち43枚が伝わる。これは江戸時代に測った範囲の広さや、完成図全体の枚数とは区別する必要がある。測量と完成の後にも、人々が図を写して保管した。一枚を見る際は、描かれた土地の調査時期と、その紙が作られた時期を確かめたい。
伊能図は大図214枚、中図8枚、小図3枚で構成された。縮尺を変えることで、細部を詳しく示す図と広い範囲を見渡す図を作り分けた。図上の長さを実際の距離へ換算する際には、その縮尺が必要になる。また、写図では制作年と調査した年代が違う場合もある。線に描かれた土地の情報は、測量に加え、編纂や複写を経て伝わった。
1804年には東日本の沿海図が幕府へ提出された。その後も四国や九州などを調べ、測量の範囲を広げていった。1821年の完成図に描かれた全国を、初めの調査で測ったわけではない。各回の経路をたどると、途中の成果を引き継ぎながら調査が進んだことが分かる。長い距離を歩く隊と、持ち帰った記録をまとめる組織が精度を支えていた。
前後の流れ
- 1795年
江戸で高橋至時に学ぶ。
- 1800年
最初の測量に出発。
- 1818年
忠敬が死去。
- 1821年
地図が完成し幕府へ献上される。
言葉の意味
- 方位
- 対象や進路がどの向きにあるかという角度。
- 緯度
- 南北の位置を示す値。天体観測も基準になる。
- 縮尺
- 実際の距離と地図上の距離の割合。
史料から分かること
地図は忠敬の死後に完成した。
香取市年表は1818年没と1821年完成を分ける。
忠敬一人が完成品を描き終えたとしない。
現存図の多くは副本や写本である。
図書館が正本の喪失と伝存系統を説明する。
一枚の図を無条件に献上正本としない。
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参考資料
- 伊能忠敬とは・年表香取市・伊能忠敬記念館
商家から天文学、1800年測量、1818年没、1821年完成。
- 伊能図国立国会図書館
縮尺と範囲、正本の喪失、現存する副本と写本。
- 伊能忠敬関係資料香取市
日記・測量器具・天体観測と緯度。
- 伊能忠敬記念館だより第6号香取市 伊能忠敬記念館
1800年の第1次測量隊、東北から北海道の海岸への経路。
- アーカイブ香取遺産 Vol.041〜050香取市
50歳で江戸に出て高橋至時に師事、1800〜1816年の測量、1821年献上。

