
留学経験を日本の教室へつなぐ
1900年、津田梅子の女子英学塾は十人の学生で始まった。1905年には英語科教員の無試験検定を扱う許可を得て、学んだ専門性が教員の仕事へつながる制度上の道ができた。梅子自身は六歳で渡米し、1882年に帰国した後、教壇と再留学を経験した。幼い留学から開校へ一直線に進んだのではなく、学ぶ場所と働く道を国内で探す時間があった。
開校には大山捨松、瓜生繁子、アリス・ベーコンらが協力した。ベーコンは入学試験やクラス分けにも関わった。学生を受け入れ、クラスを分け、教員をそろえる。最初の授業を始めるまでにも、梅子だけでなく協力者たちの経験と働きが必要だった。
十人から始める専門教育
1900年、麹町の女子英学塾は十人の学生で開いた。梅子は少人数で一人ひとりに応じて教えることと、学生の研究心を重視した。規模が小さいことを、それだけで学ぶ内容が初歩的だった証拠にはできない。目指したのは会話ができることだけでなく、英語の専門性と広い教養を身につける教育だった。学生数の少なさは、授業の水準や教育方針まで示すものではない。
1905年、英語科教員の無試験検定を扱う許可を得た。英語を身につけることが、教員という仕事へつながる制度上の道も開いたのである。大学の紹介には1918年の卒業生の就任地を示す地図もあり、主な勤務先は高等女学校だった。資格の取得と卒業生の勤務先の記録からは、塾で学んだ英語が各地の教育に生かされていたことが分かる。
学校を失っても授業を続ける
1923年の関東大震災で五番町の校舎は全焼し、翌年一月に仮校舎で授業を再開した。教員や学生、協力者たちが学ぶ場を用意し直し、校舎を失った後も授業を続けた。授業を再開できた背景には、教える内容を保つだけでなく、新たな場所を確保し学校の組織を立て直す仕事があった。
梅子の死後、学校は1931年に小平の新校舎へ移った。創設時の十人は、後の学校の全学生数ではない。成長をたどる一方、一校の成立だけで全国すべての女性に同じ進学条件が与えられたとすることもできない。女子英学塾は学ぶ場を維持しながら、女性が専門職へ進む道を増やしていった。
被災後の復興では教師ハーツホンが米国へ渡って募金し、学校の目的を伝える文書も配られた。別の建物で授業を始めるには、意思だけでなく資金と資材と場所が必要だった。1924年の再開には、海外で支援を求めた人々と寄付を寄せた人々、授業を整えた教員の協力があった。教育を続けるためのつながりは国境を越えていた。
1929年に梅子が没すると、卒業生で教員でもあった星野あいが塾長を継いだ。学ぶ側だった人が学校を守る側へ移ることも教育の成果の一つである。創設の理念と後の運営者の判断は同一ではないが、教師と学生を育てる仕組みが、授業の継続と学校の発展を支えた。学んだ人々は卒業後に各地で働き、中には学校の運営を担う人もいた。学校は人材を送り出すとともに、その卒業生にも支えられていた。
前後の流れ
- 1871年
六歳で米国へ留学。
- 1900年
学生十人で女子英学塾を開校。
- 1905年
英語科教員の無試験検定の扱いが認められる。
- 1924年
震災後に仮校舎で授業を再開。
言葉の意味
- 女子英学塾
- 1900年に梅子が創設した女子の高等教育機関。
- 教養
- 一つの専門だけでなく幅広い分野を学ぶこと。
- 教員資格
- 教える仕事に就くための資格や認定。
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