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1889年|大日本帝国憲法の発布

明治憲法で何が決まったのか

天皇、帝国議会、臣民の権利。原本と草案から政治の仕組みを読む。

草案を審議し国家の基本を文章にする

明治の国家づくりでは、政府の権限と機関をどの形で定めるかが課題になった。憲法の草案は検討と審議を経て、1889年2月11日に発布された。発布は条文を公に示す節目であり、すべての政治機関がその日に動き始めたことを意味しない。憲法の制定後も、議会などの機関を実際に動かす準備が続いた。

1888年に置かれた枢密院は草案の審議に関わった。草案と完成した原本を比べると、条文が検討を通じて決まったことが分かる。政治の原則を文章にすると、誰が何を決めるかを明示できる一方、その文章を実際にどのように使うかは後の政治の問題として残る。憲法の制定後も、条文で定めた権限を誰がどう行使するかが政局を左右した。

天皇、議会、臣民の権利を定める

第5条は、天皇が帝国議会の協賛を得て立法権を行うと定めた。議会は衆議院と貴族院の二院からなり、法律案を審議し、自ら提出する権限も持った。一方、二院とも同じ方法で選ばれたわけではない。公選の衆議院に対し、貴族院には皇族、華族、勅任議員などがいた。法律の審議には、異なる方法で選ばれた二院の議員が関わっていた。

第29条には言論、出版、集会、結社の自由があるが、その保障には法律で定める範囲という条件が付いた。つまり自由を列挙した同じ制度の中で、法律による制限が可能だった。権利の名前が現在と似ていても、保障の仕方は同じではない。条文が掲げた自由は、法律で制限できる範囲に置かれていた。

施行から戦後の憲法へ

1890年11月29日に憲法が施行され、議会を含む制度が動く段階へ進んだ。条文は制度上の権限を示すが、その後のすべての決定を自動的に説明するものではない。政府、議会、その他の機関がどのように関係し判断したかは、実際の記録をたどる必要がある。条文に基づいて各機関がどう動いたかは、その後の政治の記録に残されている。

戦後の日本国憲法では主権を国民に置き、天皇を象徴と位置づけた。これは権利の一覧に項目を加えただけの変化ではない。国家を動かす原則が変わったため、議会や権利の位置も変わる。明治憲法と戦後の憲法では、国家の権力と人々の自由を定める原則が異なっている。

前後の流れ

  1. 1888年

    枢密院が設置され草案を審議。

  2. 1889年2月11日

    大日本帝国憲法を発布。

  3. 1890年11月29日

    憲法が施行される。

言葉の意味

欽定憲法
君主が与える形式の憲法。
主権
国の政治の最終的な権威がどこにあるかという原則。
施行
法令の効力を実際に生じさせること。

史料から分かること

権利には法律による制限があった。

原本解説が法律の範囲内の自由を示す。

史料だけでは分からないこと

現代憲法と同じ保障範囲にしない。

発布の前に草案の審議があった。

枢密院の記録や草案が残る。

史料だけでは分からないこと

草案と最終条文を同じものとして読まない。

理解を確かめる

答えを選ぶと解説が表示されます。本文や資料を読み返しながら考えてみよう。

1. 明治憲法にも言論や信教に関わる権利が書かれている。現在と同じ保障とは言えないのはなぜ?

参考資料

  1. 大日本帝国憲法の発布国立公文書館

    天皇主権、帝国議会、法律の範囲内での臣民の権利。

  2. 大日本帝国憲法を発布する国立公文書館

    草案と枢密院、1889年の発布、1890年の施行。

  3. 大日本帝国憲法・法令本文名古屋大学

    第5・29・33〜38条。立法と帝国議会、臣民の自由に付く法律の範囲という条件。