揺れの後に都市の機能が止まる
1923年9月1日の地震は、東京や横浜の建物を壊し、火災を広げた。倒壊から人を救う仕事と、燃え広がる火を止める仕事が同時に必要になる。ところが道路や橋の被害で移動が難しくなり、断水で消火の力も落ちた。都市の被害は壊れた建物の数だけでは説明できない。普段つながっていた設備が止まることで、救助や物資供給にも支障が出た。
政府や警察の施設自体も被災したため、指示を出す側が完全な状態で救援を始められたわけではない。通信や交通の停止は、どこに人手と食料が必要かを知る仕事にも影響した。災害の直後と、組織的な救護が整う時期には隔たりがある。その間、住民同士が食料を分け、泊まる場所を提供するなど、現場の助け合いも行われた。
東京の市街地の火災と、海岸の津波、山地の斜面崩壊では被害の広がり方が違った。一枚の焼け跡の写真をすべての被災地の代表にはできない。午前十一時五十八分は地震の始まりを示すが、すべての死傷がその瞬間に起きたという意味でもない。揺れの後にも火災が広がり、道路などの被害は避難を妨げた。地震は建物や生活の設備を損ない、複数の災害を引き起こした。
避難と救護に情報の問題が重なる
当時は電話、電信、新聞が主な情報手段で、ラジオ放送はまだ始まっていなかった。報道と通信が止まると、避難先や危険の確かな情報を得にくくなる。火と風に追われて広い場所へ集まっても、そこが必ず安全とは限らず、家財や熱によって避難先でも火が生じた。避難の移動と避難先の条件は別の問題として被害に関わった。
根拠のない放火や投毒などの流言は、朝鮮人などへの殺傷につながった。これは地震の揺れが直接人を襲うのとは違い、人が他者へ行った暴力である。この殺傷には、自然現象とは異なる差別と加害の責任がある。救助で助け合う人々がいた一方、同じ震災の中で流言をもとに人を襲う暴力も起きていた。
暮らしを再び動かすための復興
食料を失い、道が通れず、家がない人へ物資を届けるには、運搬と配布の仕組みを整える必要があった。ほかの地域や外国からも救援が来た。船を避難者の収容や輸送へ使うなど、残る設備を別の役割へ使う対応も行われた。建物の修理とともに、食料や避難先を確保して生活を支える仕事も進められた。
被害には揺れや火災に加え、設備の停止や救護の遅れ、人々による暴力も関わった。いつ誰が何をしたかによって、その後の被害は変わり得た。都市の設備が互いに依存していたことや、情報と差別が人々の行動を左右したことも、震災の記録に残されている。
前後の流れ
- 1923年9月1日11時58分ごろ
地震が発生し広域の災害が始まる。
- 震災直後
都市機能が止まり、救援と避難が難しくなる。
- 震災後の混乱の中で
流言が広まり、朝鮮人などへの殺傷が起きる。
言葉の意味
- 複合災害
- 揺れ、火災、津波など複数の被害が重なること。
- 流言
- 確かめられていない情報が広がること。
- 自警団
- 住民らが自ら警戒するためにつくった集団。
史料から分かること
理解を確かめる
答えを選ぶと解説が表示されます。本文や資料を読み返しながら考えてみよう。
参考資料
- 関東大震災報告書・第一編内閣府
発災時刻、地域差、倒壊・火災・津波・土砂災害・液状化。
- 関東大震災報告書・第二編内閣府
通信・交通・水道の途絶、救援、流言と朝鮮人への殺傷。
- 令和5年版防災白書・関東大震災の応急対策内閣府
断水と消防力、電話・電信・新聞の停止、流言と殺傷、住民の救護。
