城主が代わるたびに城をつくり替える
姫路城の入口から天守へ進むと、門ごとに道が曲がり、通れる幅も変わる。塀や石垣は人を限られた経路へ導くための設備だった。現在の大天守は1609年の完成だが、城内には秀吉時代の整備と、本多氏が後に造った西の丸もある。今歩ける城は、一度の工事で完成したものではない。
城には天守のほか、曲輪や門、塀、堀、石垣がある。領主が暮らして政務を行う場所を、これらの設備が何段階にも区切っていた。門で人や物の出入りを管理し、城内へ進む経路を限る。遠くから見える天守と、その手前に続く防御の設備を合わせて、姫路城全体が構成されている。
門と石垣で進む経路を制御する
天守へ向かう道は一直線ではなく、門を通るたびに向きや幅が変わる。入る人は少しずつ限られた道を進み、守る側はその動きを見通せた。石垣で高さをつくり、塀や建物で空間を区切ることで、進路を制御している。白い壁も装飾であるとともに、この防御を担う設備だった。
本多氏の時代、1617年以降に西の丸が整備された。大天守が完成した1609年より後の造営で、城内の建物には時期の違いがある。城には家族や家臣の生活の場も要り、城主の事情によって必要な広さや部屋は変わった。防御を保ちながら、暮らしに合わせて空間を増築していた。
修理が木造の城を伝えてきた
木造の城を保つため、瓦や壁、木材は繰り返し点検され、傷んだ部分が修理された。昭和の大修理では天守を解体し、部材と構造を調べて組み直した。そこで作られた記録には、普段は見られない内部の技術が残る。建物を保存しただけでなく、造りを詳しく知る調査にもなった。
姫路城には戦国期の整備があり、江戸初期に大がかりな造営が進んだ。道には防御の工夫が施され、建物は異なる時期に追加されている。その後は近代の修理や保存によって姿が保たれた。領主の政務と暮らしに応じて職人が築き、後世の人々が手入れを続けた城を、現在の私たちは歩いている。
前後の流れ
- 1609年
池田輝政の大天守が完成。
- 1617年以降
本多氏のもとで西の丸の整備が進む。
- 1956年
大天守などの解体修理が本格的に始まる。
- 1958年
大天守の解体が終わり、銘文などが調べられる。
言葉の意味
- 天守
- 城郭を構成する高い建物。城全体ではない。
- 櫓
- 防御や見張りなどを担う城の建物。
- 西の丸
- 城郭内の区域の一つ。天守と別の整備時期を持つ。
史料から分かること
大天守と西の丸の整備時期は違う。
市と県博物館の年表で工事を分けられる。
城全部の建設年を1609年一つにしない。
今の城には保存の仕事が重なる。
年表に後世の修理や維持が記される。
全材料が竣工時のままとは言えない。
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参考資料
- 姫路城の歴史姫路市
池田輝政による築城、1609年の大天守と城の構成。
- 姫路城年表兵庫県立歴史博物館
1609年と1617年の工事の違い、後世の保存・修理。
- 姫路城保存活用計画・第4章姫路市
本丸等と西の丸の地形・配置、天守下の先行礎石、西の丸の1617年以降の築造。検索収録本文で照合。
- 歴史・昭和の大修理姫路市
1958年の大天守解体、銘文の発見、調査記録と部材の新補。検索収録本文で照合。


