
信長と信忠が別々の場所で襲われる
天正10年5月29日、信長は京都の本能寺へ入った。中国地方へ向かうはずの光秀の軍は、6月1日に亀山を出て、翌2日に本能寺を襲う。少人数で滞在していた信長に、配下の軍が向けられた。ここでの月日は旧暦であり、襲撃の日を現在の暦の6月2日とそのまま重ねることはできない。
信長が本能寺で没した一方、後継者の信忠は別の場所にある二条御新造で最後の戦いに臨んだ。光秀の軍は京都の複数の場所へ動き、父と子が同日に失われた。織田家には主君の跡だけでなく、後継者だった信忠の跡を誰が担うかという問題も残った。政権を継ぐ道筋は、この二つの戦闘によって断たれた。
光秀は政治の足場を固めようとする
光秀は襲撃後の6月5日に安土へ入り、9日には京都で活動して協力者を求めた。信長を倒した後も、自らの支配を認めてもらい、土地と人を動かせる味方を得なければならなかった。攻撃に成功しただけでは政権は保てない。山崎で敗れるまでの短い間に、軍を動かしながら支持を取りつけようとした。
光秀の動機には多くの説があり、行動の順序をたどれても内心を一つに決めることはできない。後世に描かれた会話や怨恨の場面も、そのまま本人の言葉を記したものではない。移動の記録や書状からは、襲撃後に誰へ協力を求め、どのように支持を得ようとしたかを調べられる。動機が定まらなくても、その政治行動にはたどれる経過がある。
山崎の敗北と今の本能寺
光秀は6月13日の山崎の戦いで敗れ、退却の途上で没した。旧暦6月2日の本能寺襲撃から、わずかな期間で勢力図が再び変わった。信長を倒した後に支持を集めようとしたが、政権を保つには至らなかった。襲撃から山崎までを追うと、本能寺の変が安定した政権交代に結びつかなかった経緯が分かる。
襲撃当時の本能寺は六角西洞院付近にあった。1591年に秀吉の都市整備で寺町御池へ移り、現在の本堂は1928年に再建された。今の参拝先と事件の起きた場所は異なり、本堂も当時の建物ではない。信長が襲われた場所を確かめるには、旧寺域を示す地図や石碑を見る必要がある。
前後の流れ
- 1582年・旧暦六月二日
本能寺で信長、二条御新造で信忠が亡くなる。
- 1582年・旧暦六月十三日
光秀が山崎で秀吉に敗れ、退却中に亡くなる。
- 1591年
秀吉の命で本能寺が現在地へ移転する。
- 1928年
現在の本堂が再建される。
言葉の意味
- 寺域
- 寺の建物や敷地がある範囲。
- 旧暦
- 当時使われた暦。現代の月日へそのまま置き換えない。
- 跡地
- 施設がかつてあった場所。現在の施設とは離れる場合がある。
史料から分かること
事件の寺は現在の本能寺の場所ではない。
京都市の本能寺跡の解説が旧寺域を示す。
現在の寺をそのまま戦場の平面図にしない。
今の本堂は近代の再建だ。
寺の案内が1928年の再建を伝える。
事件当時の本堂が残るという意味ではない。
理解を確かめる
答えを選ぶと解説が表示されます。本文や資料を読み返しながら考えてみよう。
参考資料
- 本能寺跡京都市歴史資料館
旧暦六月二日の事件、当時の寺域、旧跡の位置。
- 本能寺京都市観光協会
信長への攻撃、創建・移転・焼失、現在の場所への移転と1928年の本堂。
- 明智光秀と「本能寺の変」・第312回文化財講座京都市考古資料館
旧暦六月二日の本能寺と二条御新造、十三日の山崎の戦い、1591年の寺の移転。事件の経過と遺跡を照合する。

