
義満の使節と朝貢という形式
1401年、足利義満は明へ使節を送り、幕府として外交関係を整えようとした。博多の商人たちも明との商売に関心を持っていた。ただし港の往来はそれ以前からあり、日中交流がこの年に始まったわけではない。幕府が公的な使節を派遣するにあたり、明にどのような資格で受け入れられるかが課題となった。
明との公式貿易は朝貢の枠組みで行われた。日本から硫黄や刀剣、扇などを献上し、返礼として銅銭や生糸などを受け取る形式を伴った。商人には必要な商品を得る目的があったが、自由に市場へ買いに行く取引ではない。商売を進めるにも、明が定める外交上の立場と手続きに合わせる必要があった。
船が来た後に勘合を照合する
1404年からの勘合貿易では、札に書かれた文字の片割れを「底簿」という台帳の文字と照合した。一致すれば、正式な使節船として来た資格を確かめられる。勘合が保証したのは商品の価格ではなく、その船の身元だった。荷を積んで到着した後にも、この確認を通って公式の朝貢貿易へ進んだ。
船を動かす乗員や荷を運ぶ人々に加え、文書を用意する人と照合する役人が貿易に関わった。入港した船は資格の確認を受けてから公式の取引へ進む。使節は港だけでなく陸路も往復し、手続きにも時間がかかった。海上輸送を終えればすぐに売買できるわけではなく、外交文書を整えて受け入れを待つ必要があった。
日記の図に残った失われた札
勘合の実物は現存しないが、1468年に明へ渡った禅僧の『戊子入明記』には図が残る。当時の札がどのような姿だったかを考える貴重な資料である。ただし調べられるのは実物の紙ではなく、同行者が観察して写した図だ。道具そのものが失われても、こうした記録から使い方や制度をたどれる場合がある。
遣明船は16世紀半ばまで活動した。その間に港を取り巻く政治勢力や、渡航の条件も変わっている。公式の使節船かどうかを役人が勘合で確かめ、その資格を得て商人が品物を取引した。日明貿易を続けるには、船と商品だけでなく、公認の資格と朝貢の形式を整える必要があった。
前後の流れ
- 1401年
義満が明へ使節を派遣。
- 1404年
勘合を用いる公認貿易が始まる。
- 16世紀半ばまで
室町期の遣明船の活動が終わる時期。
言葉の意味
- 勘合
- 公認の船であることを台帳との照合で確認する札。
- 底簿
- 勘合と照合するための台帳。
- 朝貢
- 献上と返礼を伴う対外関係の形式。
史料から分かること
勘合は認証の手段だった。
博物館が底簿との文字の一致を説明する。
勘合が船のすべての品質や安全を保証したわけではない。
公認交易は朝貢形式で行われた。
図書館の史料案内が日本国王名義と明の制度を示す。
外交形式を民間交流全体と同一視しない。
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