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1378年|義満が室町の邸宅へ移る

将軍が暮らす室町の京都

将軍の住まいと商工業の町が並ぶ京都。花の御所の建設から焼失までをたどる。

内裏の北に将軍の住まいをつくる

義満は1378年に室町の邸宅を完成させ、翌年に移った。一帯は花の御所として知られ、美しい庭も造られた。その維持には将軍の出費に加え、地域の負担もあった。1406年には山城国へ修理費の上納が課され、1429年にはほかの寺から石を運ばせている。御所の景観は、こうして集めた資金と資材で保たれた。

室町幕府の名は、将軍の邸宅があったこの場所に由来する。御所では政務だけでなく、将軍の暮らしや儀礼、来客の応対も行われた。周辺の上京には為政者の住居が集まり、下京では商工業が発達した。同じ京都でも、政治に近い区域と商いの盛んな区域では町の様子が違っていた。

庭園の華やかさを支える費用

庭の手入れや建物の修理には、好みの設計を選ぶだけでなく費用と資材の手配が要った。1406年には山城国から修理費を集め、1429年の増築ではほかの寺の石を運ばせた。各地からお金や材料を取り寄せる命令が、庭園を維持した。一方、それを納めたり運んだりする側には負担となった。

1437年の天皇の行幸記録には、門や寝殿、台所などが現れる。天皇一行を迎えるには儀礼の場を整え、移動を助け、食事も用意しなければならなかった。御所の広い敷地では、それぞれの建物に働き手がいて応対を進めた。庭の美しさを伝えるだけでは分からない、来客を迎える施設としての姿が記録に残る。

御所の周辺には有力大名や公家の屋敷があり、東側には相国寺があった。将軍の近くに住めば交渉しやすくなるが、上京全域が将軍の私有地だったわけではない。武家と朝廷、寺院がそれぞれ土地や人脈を持つ町だった。後に御所が焼け、庶民の家が並ぶようになると、同じ土地が別の暮らしの場へ変わっていった。

戦乱と火災で変わる土地

応仁・文明の乱で花の御所は攻撃を受けた。1476年には近隣の火災が及んで全焼し、同じ都市にある公家や武家の屋敷、寺院も火災の被害に遭った。御所の再建に向け、1479年には各地から費用が集められた。戦乱と火災を経た後も、将軍の政務や儀礼の場を取り戻そうとしていた。

再建は容易ではなく、焼け跡や周辺には後に庶民の家も並んだ。将軍の庭園だった場所で、人々が日々の暮らしを営むようになったのである。花の御所には、造営と修理の歴史に加え、火災後に土地の用途が変わった歴史もある。最も華やかだった時期の景観が、そのまま長く保たれたわけではなかった。

前後の流れ

  1. 1377年

    市の花の御所解説が造営年とする。

  2. 1378年

    義満が今出川室町の邸宅へ移る。

  3. 1476年

    花の御所が焼失する。

  4. 1479年

    諸国へ上納金を課して再建を進める。

言葉の意味

花の御所
足利義満が造営した将軍の邸宅。
上京
中世京都北部の都市区域。
政庁
政務を行う中心となる場所。

史料から分かること

上京には商工業の地区もあった。

都市年表が北野周辺の仕事を伝える。

史料だけでは分からないこと

将軍屋敷の図だけで全住民の暮らしを説明しない。

理解を確かめる

答えを選ぶと解説が表示されます。本文や資料を読み返しながら考えてみよう。

1. 華やかな庭園の記録に修理費の上納が出てくる。そこから見える政治の働きは?

参考資料

  1. 京都の歴史年表・都市のながれ京都市歴史資料館

    1378年の今出川室町への移転。

  2. 花の御所京都市上京区

    1377年の造営、名称、周辺の公武の屋敷と北野の商工業。

  3. 都市史12 花の御所京都市

    1406年の修理費徴収、1429年増築、1437年行幸、1476年焼失、1479年再建と後の土地利用。