
住む場所、蓄える場所、守る場所
集落が大きくなると、建物が増えるだけで済む?

暮らしの場が、丘陵上に生まれる。
丘陵に集落ができる
吉野ヶ里では弥生時代の長い間に集落が変化した。最初から現在の復元施設のような大きな中心地があったわけではない。
農村が集まり中心集落になる
吉野ヶ里は弥生時代初めの小さな集落から発展した。南側に環壕で囲まれた集落が生まれ、その後は北へ広がっていく。人々の暮らす場所に収穫物が集まるにつれ、保管する倉庫や守りの堀も必要になった。住居や倉庫の配置、堀を広げた跡には、地域の拠点へ成長した過程が表れている。
大きな堀を掘り直すには多くの人手が要った。住民に加え、蓄えた食料や生産物も守ろうとしたと考えられる。さらに内側にも堀を設け、特定の場所を区切っていた。そこには誰もが自由に出入りできたわけではない。集落が広がる中で、工事をまとめ、区画や防御を管理する力も強まっていった。
物資を蓄え、作り、運ぶ
大集落では稲作に加え、木製の農具や器を作り、織物を用意し、金属を加工していた。住む場所とは別に物資をまとめて置く区域も設けられた。後期には西側に高床倉庫が集まっており、地域の生産物が持ち込まれたと考えられる。ただし、その機能を現在の税務署や市場と同じものだと決めることはできない。
吉野ヶ里には金属の鋳造に使う道具が残る。外から完成品を受け取るだけでなく、材料に熱を加えて加工する場所でもあった。朝鮮系の土器や船を表した木製品も出土しており、外との往来がうかがえる。農業に携わる人と、道具を作る人や材料を運ぶ人が、大きな集落の暮らしを支えていた。
墓の違いと政治の中心
中期の甕棺墓は長い列をなし、北墳丘墓には銅剣やガラス管玉を副葬した埋葬があった。墓の大きさや副葬品の差から、人々の立場にも違いがあったと考えられる。後期になると墓は少なくなり、同様の特別な墳墓は確認されていない。後期の大きな建物と中期の豪華な墓は、時期を分けて見る必要がある。
後期の吉野ヶ里には大型建物や内郭、倉庫群が集まっていた。小さな農村にはない施設を備え、周囲から人や物資を集めていたことから、「クニ」の中心を考えるうえで重要な遺跡とされる。文字史料に出る邪馬台国の所在地が、この遺跡で確定するわけではない。地域の拠点の成長はたどれても、その名や支配者の全貌はまだ分からない。
前後の流れ
- 紀元前5〜前2世紀
前期の小集落と初期の環壕集落。
- 紀元前2〜紀元1世紀
中期の大きな環壕と墳丘墓、甕棺墓地。
- 紀元1〜3世紀
後期に二つの内郭と大規模な集落が形成される。
言葉の意味
- 環壕
- 集落を囲む堀。吉野ヶ里では空堀を指す。
- 墳丘墓
- 土を盛ってつくられた墓。
- 首長
- 集団の政治的な中心となった有力者。
史料から分かること
集落には立場の違いがあった。
墓の規模と副葬品に差がある。
墓の差だけで全員の仕事や法的身分までは分からない。
復元の中心は3世紀ごろだ。
公園の歴史解説が時期を区別する。
復元配置を弥生時代の全期間に当てはめない。
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