先住の土地に新しい行政の中心を置く
1869年に開拓使が置かれ、札幌は明治政府の北海道開発の中心になった。この地域にはそれ以前からアイヌの人々が暮らし、川や土地を利用していた。開拓使の設置によって初めて生活が始まったわけではない。近代の開発は、先住の人々が土地と関わりながら暮らしてきた地域を作り変える事業でもあった。
新たな行政拠点を維持するには、役人に加え、住民や建築材料、食料と道路が必要だった。札幌本府の周辺に村を配置し、移住を募ったのは、町の内部と外を一緒に整えるためである。都市を計画する側の記録と、移り住む人や先に暮らした人の経験では、同じ変化の意味が違っていた。
大通と創成川が町の基準になる
1871年の町割では、測量をして道と区画を定めた。創成川を東西の基準とし、大通の北を官庁、南を商店や住宅の区域に分けた。碁盤目は同じ建物を繰り返し並べるためだけの形ではない。違う仕事をする区域を分け、行き来する道をそろえる設計だった。町割の図には、役所や店、住まいをどこに置くかという当時の判断が表れている。
道の幅を分け、橋を架け、周辺との経路を整える工事が必要だった。外国人技術者の知識も導入されたが、計画だけで道路は完成しない。測って土地を整え、材料を運び、工事を続ける人の仕事が加わる。今の整然とした街路ができるまでには、設計図を描いた後にも測量や土地の整備、橋や道路の建設が続いた。
街路の外にも町を支える暮らしが広がる
1871年の本願寺街道や1873年の札幌本道など、外との道が整えられた。市街の碁盤目だけでは遠方から人と物が届かない。都市の機能は、郊外の村と長距離の交通を組み合わせて成り立つ。1875年の屯田兵入植も、人が土地へ移り住み、生産と生活を始める変化の一つだった。道路の整備に加えて移住も進み、住まいや仕事が市街の外にも増えていった。
新しい道路や行政の整備が進んだことは、利益と負担がすべての人へ同じように届いたことを意味しない。行政の進めた都市づくりは、先住の人々と移住者の土地利用や暮らしにも変化をもたらした。札幌の街路が整っていく間に、立場の異なる人々が同じ開発を経験していた。
前後の流れ
- 1869年
開拓使が設置される。
- 1871年
市街地の区画を定める。
- 1875年
屯田兵が入る。
言葉の意味
- 開拓使
- 明治政府が北海道などの行政・開発を担わせた機関。
- 町割
- 道路や土地の区画を決めること。
- 屯田兵
- 農耕と軍事の役割を兼ねた移住者。
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参考資料
- 札幌市のあらまし札幌市
アイヌの先住の歴史、1869年の開拓使、1875年の屯田兵。
- 開拓初期の札幌の道路札幌市
1871年の町割、創成川・大通、官庁と商業区域、道路幅。
- 札幌のあゆみ札幌市公文書館
周辺村落の配置、移住の募集、1871年・1873年などの道路整備。

