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1180〜1333年|鎌倉の武家政権

鎌倉幕府はいつ始まったのか

頼朝が鎌倉へ入ったのは1180年。将軍任命までの歩みと、武士の政権を支えた組織をたどる。

1180年から始まった武士の組織づくり

1180年に鎌倉へ入った頼朝は、従う武士をまとめる拠点と組織を整えた。武士は従来の所領を認めてもらい、軍功には新たな恩賞を求めた。土地の権利が守られるかどうかは家の存続に関わる。頼朝はこうした保証と軍事奉仕を結びつけ、東国の武士と主従関係を築いていった。

頼朝は1183年に朝廷から東国支配を認められた。1185年には守護・地頭の設置に関わる権限を得て、1192年に征夷大将軍となった。拠点を構えた後も、支配の範囲と朝廷から認められる権限が段階的に広がっている。京都の朝廷は存続し、その関係を調整しながら鎌倉の政権が形づくられた。

将軍が代わっても政務を続ける

幕府は御家人の軍事や警察を侍所に、政務や訴訟を政所や問注所などに担わせた。将軍がすべてを直接処理するのではなく、それぞれの役所で担当者が仕事を続けた。土地をめぐる争いが多い社会では、訴えを受けて権利を判断することも、軍を率いることと並ぶ政権の重要な役割だった。

源氏の将軍は三代で終わったが、幕府の役所と御家人の関係は残った。北条氏が執権として政務を主導し、新たな将軍のもとでも政治を続けた。将軍の家系が代わっても、訴えを受けて権利を調整する仕事はなくならない。政権を担う家と実際に仕事をする組織が、同じ歩みをたどったわけではなかった。

港を持つ都市の成長と幕府の滅亡

山に囲まれた鎌倉には海からも物資が届いた。和賀江島などの港を通じて町が支えられ、宋や元との交流で禅や建築、工芸の文化が伝わった。政権のもとへ人と物が集まり、寺院の建立や市街の整備も進んだ。合戦の拠点としてだけでなく、貿易や信仰、人々の暮らしがある都市として成長していた。

1333年に幕府が滅んだ後も、鎌倉の町と寺社の歴史は続いた。現在の寺の創建年と建物の建築年が違うのは、火災や再建を経ているためである。源氏三代から北条氏の政治、その後の時代へと、同じ土地の役割も変わった。政権が終わっても住民は暮らし、建物は失われたり建て直されたりしている。

前後の流れ

  1. 1180年

    頼朝が鎌倉へ入り組織を整える。

  2. 1183年

    朝廷が東国の支配を認める。

  3. 1192年

    頼朝が征夷大将軍に任命される。

  4. 1333年

    鎌倉幕府が滅亡する。

言葉の意味

幕府
将軍を中心にした武家政権を指す歴史上の呼び方。
執権
鎌倉幕府で将軍を補佐し、北条氏が政治を主導した役職。
任官
役職に任じられること。実際の権力の成立とは区別する。

史料から分かること

政権の形成は1192年より前に始まる。

1180年、1183年、1192年が異なる段階を示す。

史料だけでは分からないこと

一つの成立年を選ぶには判断基準の説明が必要だ。

鎌倉は海外とつながる都市でもあった。

市の解説が和賀江島と中国との交易を記す。

史料だけでは分からないこと

都市の全住民が同じように利益を得たとは言えない。

理解を確かめる

答えを選ぶと解説が表示されます。本文や資料を読み返しながら考えてみよう。

1. 1185年と1192年をどちらも「幕府ができた年」とだけ覚えると、何を見落とす?

参考資料

  1. 令和2年度高等学校卒業程度認定試験・日本史B 第2問の年表文部科学省

    PDF20ページ(冊子19頁)の年表に1180年の鎌倉拠点・侍所、1183年の東国支配の承認、1192年の将軍任命。成立の基準を比べる問題。

  2. 鎌倉の歴史鎌倉市

    北条氏の政治、都市形成、港と海外交流、1333年の滅亡。