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1274・1281年|二度の蒙古襲来

博多湾に石の防塁を築く

二度の襲来の間に造られた石垣から、海辺の防備と交易を考える。

最初の襲来が防衛を変える

1274年に元の軍勢が博多湾へ来襲し、海岸から町へ戦闘が広がった。幕府は次の攻撃で上陸を妨げるため、1276年に石築地を築かせた。大陸から再び来る軍を見据え、九州の浜辺で工事と警備が始まった。海岸の地形に手を加えることも、防衛の重要な対策になった。

防塁は博多湾岸に沿って長く築かれた。一つの城にこもるのではなく、軍が上陸しそうな海岸を連続して守ろうとした。石を集めて運ぶ工事が終わっても、警固する人員と物資を確保しなければならない。次の襲来の時期が分からないまま、防衛の負担は合戦の日以外にも続いた。

砂地に石を積み上陸を妨げる

浜辺の砂は、重い石をそのまま積むには不安定な地盤だった。西新・百道地区の調査では、粘土で基盤を整えてから石を積んだことが分かっている。防塁は土地に合わせて築かれ、地域によって構造や材料も違う。残る断面の一つを見て、全区間が同じ造りだったとは判断できない。

1281年の再来襲では、防塁と守備側の抵抗が元軍の上陸を妨げた。海上でも戦闘が続き、その後の暴風が船団に大きな損害を与えた。撤退までには、陸の備えと海の戦い、天候の変化が重なっていた。暴風だけでも、防塁だけでも、この経過を説明することはできない。

襲来の後も終わらなかった備え

二度目の襲来を退けた後も、幕府は次の攻撃を警戒して防塁の補修を続けた。いつ来るか分からない軍に備え、人手や物資を出す負担が残った。博多は一方で、海外から品物や知識が届く貿易港でもあった。同じ海の道で交易が行われ、軍が来る危険にも備えなければならなかった。

後の都市化や埋立てで海岸線は移り、防塁の石がほかの工事に使われた場所もある。現在は内陸に見える区間も、築造当時は海岸だった。当時の海岸線を地図で確かめると、どの上陸地点を防ごうとしたかをたどれる。残った石の断面には、元寇への備えとして材料を運び、地盤を整えた工事の跡もある。

前後の流れ

  1. 1274年

    第一の襲来・文永の役。

  2. 1276年

    次の襲来に備えて防塁を築く。

  3. 1281年

    第二の襲来・弘安の役。

言葉の意味

防塁
海岸に築いた上陸への防御施設。
文永の役
1274年の襲来を指す。
弘安の役
1281年の襲来を指す。

史料から分かること

防塁は最初の襲来の後に築いた。

福岡市が1276年の築造を説明する。

史料だけでは分からないこと

両方の襲来に同じ海岸設備があったとしない。

現在の海岸線だけでは位置を説明できない。

遺跡の説明が地形変化を扱う。

史料だけでは分からないこと

内陸に残る石塁も、当時の位置関係で考える。

理解を確かめる

答えを選ぶと解説が表示されます。本文や資料を読み返しながら考えてみよう。

1. 砂地にそのまま石を積むのではなく、下地を粘土で整えたのはなぜ?

参考資料

  1. 元寇防塁福岡市

    1276年の築造、範囲、発掘された基礎、海岸線の変化。

  2. 博多港の歴史福岡市

    二度の襲来と、その前後の海外交易。

  3. 元寇防塁・福岡の歴史福岡市史編さん室

    1274年の戦闘後の建設、1281年の上陸阻止、暴風による損害、以後の補修。兵数は本文で引用しない。