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ナポレオン・ボナパルトを描いた創作肖像

1769〜1821年

ナポレオン・ボナパルト

フランス皇帝

1804年に皇帝となった。統治と戦争の双方を通じてヨーロッパに影響した人物。後世の逸話には、史料で裏付けられていないものもある。

革命の軍人が皇帝になるまで

革命の中で台頭した軍人は、1804年に皇帝となった。ナポレオンは革命後の法と行政を整える一方、権力を自分に集め、子孫へ継がせる制度もつくった。戦場での名声は、国内を治める権威へ変わっていった。

イタリアでの軍事的な成功の後、エジプト遠征ではアブキールでフランス艦隊が敗れた。陸の軍が戦えても、輸送を支える海のつながりは失われた。1799年に帰国したナポレオンは政変へ加わり、軍の指揮官から政府の中心へ移った。

1799年の政変で統領政府の中心となり、1804年には皇帝となった。革命を受け継ぐ主張と、権力を一人に集め世襲化する制度が同じ政権の中にあった。

民法典を作った法律家と権利の限界

民法典の草案作成にはトロンシェ、ポルタリス、ビゴ・ド・プレアムヌー、マルヴィルが関わり、裁判所の意見と国務院の審議を経た。ナポレオンは政治的な推進者だったが、一人で条文を書いた著者ではない。法をまとめることは、地域で異なる慣習を共通の文章へ置き換える仕事で、どの家族関係や財産権を認めるかという社会の選択も含んでいた。

民法典が所有や契約を整理したことは、地域ごとの違いを減らす成果だった。一方、家族の頂点に夫や父を置く制度は女性の権限を制限した。法の前での平等という言葉と、全員が同じように権利を使えることは一致しない。どの条文が誰を守り、誰を従属させるかを具体的に見れば、革命の成果を引き継いだ面と制限した面を同時に読める。

法のもとの平等という原則にも、女性の地位や植民地の人々をめぐる大きな限界があった。1802年以降の奴隷制政策は植民地によって異なり、自由の拡大だけでは説明できない。

長い戦争と二度の退位

戦争は国境や支配を変えたが、軍隊を支えた徴兵、食料、輸送の負担も各地に及んだ。1812年のロシア遠征は大きな損失を生み、政権の軍事力を弱めた。

大陸封鎖はイギリスとの経済的な対抗を目指したが、交易に関わる商人や地域の利益にも影響した。国境を広げる戦いと物資の流れを制御する政策は結びついている。ロシア遠征でも、進軍先が遠くなるほど食料と輸送の維持が難しくなった。冬だけを敗北の原因にするより、長い戦争の中で軍を支える仕組みがどこまで続いたかを見る必要がある。

1814年に退位してエルバ島へ送られたナポレオンは、1815年に戻って再び政権を握った。ワーテルローで敗れた後に送られたのは別の島、セントヘレナで、1821年にそこで没した。帰還を可能にした支持と、支配を阻んだ諸国との関係が二度の終わりを分ける。行政上の成果は残ったが、それを戦争で人々が払った代償から切り離すことはできない。

生涯の転機

  1. 1769年

    コルシカ島に生まれる。

  2. 1799年

    政変後に第一統領となる。

  3. 1804年

    民法典が成立し、皇帝となる。

  4. 1812年

    ロシア遠征で大きな損失を出す。

  5. 1815年

    ワーテルローで敗れ、流刑となる。

  6. 1821年

    セントヘレナ島で没する。

後世に残したもの

民法典と行政の仕組みは、退位後も影響を残した。一方、家族内の女性の権限を制限した制度と、戦争や植民地支配の負担も、その統治の一部だった。

参考資料

ナポレオン1世

Fondation Napoléon · 1769~1821年の経歴、政治と軍事。

1804年民法典 成立・原則・後世への影響

Fondation Napoléon · 民法典の共同作業と法制度。

ナポレオンと奴隷制の再導入

Fondation Napoléon · 1802年以降の植民地ごとに異なる奴隷制政策。

肖像は時代を参考に描いた創作です。本人の容貌を確定する資料ではありません。