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19世紀|江戸後期から明治の内子

内子の町並みと木蝋の仕事

商家の正面だけでなく、奥の作業場から木蝋づくりを見る。

木蝋の商売が商家を育てる

内子の木蝋は、ハゼの実から取り出す蝋状の油脂である。木の幹を削って採るものや、蜂が作る蜜蝋とは異なる。取り出した生蝋を精製すると白蝋になる。江戸後期から明治にかけて製造と販売が盛んになり、商家は富を蓄えた。1894年に建てられた上芳我家の大きな主屋にも、その繁栄が残っている。

商家の表側は通りに面した商売の場で、奥には作業する庭や倉が広がっていた。家族が暮らす敷地で、働く人が原料を扱い、品物を運ぶ。住まいと生産、経営の拠点が一つになっていたのである。通りにこうした家が連なり、今に残る内子の町並みがつくられた。

釜場、倉、晒し場を使い分ける

ハゼの実を砕いて蒸し、搾ると蝋を取り出せる。資料館で学芸員が教える現在の体験も、この順序で行う。上芳我家には釜場や倉の周りに作業庭があり、一段低い東側に晒し場と井戸があった。原料を運び込み、熱を加えて加工し、屋外で蝋を晒す。屋敷の広い奥行きは、それぞれの工程を行うためにも使われた。

表通りに面した漆喰壁は家の格式を示していた。その奥の井戸や釜場、晒し場では、原料を繰り返し加工する仕事が行われた。家族の生活と働く人々の作業が同じ敷地にあり、材料や製品が場所を移っていく。座敷から作業場までをたどれば、豪華な商家を支えた木蝋がどこで商品になったかを確かめられる。

生産の町を残す選択

産業の最盛期を過ぎれば、建物は別の用途に使われたり、取り壊されたりすることもある。内子では1970年代以降に町並みの保存が進み、1982年に保存地区に選ばれた。主屋だけでなく、建物が通りに連なる景観も守られた。生産に使われた家や設備は、町の仕事を伝える歴史資料として残す対象になった。

内子を訪れると、商家の華やかな正面から奥の設備へ進み、木蝋の製造が富を生んだ過程をたどれる。建物が使われた時代の後に、残そうと決めて保存を担った人々がいた。現在の町並みは、古い景色が偶然そのまま残ったものではない。商品づくりと日々の暮らしの跡が、後世の保存によって見られるようになっている。

前後の流れ

  1. 1861年

    上芳我家が本家から分かれる。

  2. 1894年

    主屋が建つ。

  3. 1982年

    町並みが重要伝統的建造物群保存地区になる。

言葉の意味

木蝋
ハゼの実から取り出す蝋状の油脂。取り出した生蝋を精製すると白蝋になる。
晒し場
木蝋を加工する工程に使った場所。
保存地区
建物群の歴史的な景観を地域として守る仕組み。

史料から分かること

一つの敷地に生活と生産が重なった。

上芳我家の解説が主屋と釜場、晒し場を示す。

史料だけでは分からないこと

家の美しさだけから全員の豊かさは判断できない。

町並みは保存活動を経て残った。

町の解説が1970年代の活動と1982年選定を記す。

史料だけでは分からないこと

江戸期の姿が完全に無変更で残るわけではない。

理解を確かめる

答えを選ぶと解説が表示されます。本文や資料を読み返しながら考えてみよう。

1. 木蝋を作る商家に釜場や倉、晒し場があった。それぞれの配置から何が分かる?

参考資料

  1. 八日市・護国の町並み内子町

    江戸後期〜明治の木蝋産業、地区の建物と保存活動。

  2. 上芳我家住宅愛媛県

    1861年の分家、1894年の主屋、製造用施設の配置。

  3. 木蝋業愛媛県

    ハゼの実を原料にする木蝋、生蝋と精製した白蝋の違い。

  4. 内子自治センターだより第354号内子町

    資料館学芸員の指導による、ハゼの実を砕く・蒸す・搾る工程。現代の体験活動として紹介。