
秀吉の死後に対立が広がる
1598年に秀吉が没した後も、豊臣家は残った。しかし政権を支えた有力者の関係は割れ、1600年に家康の東軍と三成らの西軍が戦った。参加した大名は、それぞれの領地や人脈を守ろうとしていた。出身地を東西に分けただけの戦争ではなく、遠く離れた土地の大名同士も同じ陣営に集まっていた。
関ヶ原は山と街道の間にあり、各地の軍が進んでくる場所だった。大名たちは道を通って兵と物資を運び、陣を構えた。どの軍が参加し、協力を続けるか、離反するかによって、戦場で取れる行動も変わる。地形と輸送に加え、大名同士の関係が、多くの軍の集まる合戦の勝敗を左右した。
勝利を土地と権限へ変える
旧暦9月15日に東軍が勝つと、家康の立場は強まった。戦後の恩賞と処分によって、大名の領地が組み替えられていく。所領は収入と軍役の基盤だったため、変更は家の将来にも直結した。戦場から遠い地域でも、人と資源を誰が支配するかが変わった。この再編が、後の将軍就任や豊臣氏との戦争に至る大名関係にも影響した。
岐阜県図書館が紹介する軍記には1663年成立のものや、1720年ごろとされるものがあり、合戦から長い時間を隔てている。古い本が残ることと、作者が戦いを目撃したことは違う。
合戦で交わされた命令や会話の逸話は、どの史料にいつ登場したかを確かめる必要がある。東軍が勝ったことは分かっても、各部隊が動いた正確な時刻や言葉まで同じ確かさで決まるわけではない。軍記を読む際は、戦いについて伝える内容と、後の時代に物語として整えられた部分を検討する。
1603年と1615年まで続く政権形成
1603年、家康は征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた。1600年の勝利後も、朝廷からの任官を経て地位を整えていた。1605年には将軍職を秀忠へ譲り、徳川家が次代にも政権を継ぐ形を示した。合戦の後に役職と継承を整えたことで、家康個人の優位は、家が受け継ぐ政権へと変わっていった。
豊臣氏は関ヶ原の後も大坂に残った。家康が将軍となった後も対立は解消せず、1614〜1615年の大坂の陣で豊臣氏は滅びた。1600年の勝利だけで全国の対抗勢力が消えたのではない。将軍就任と次代への継承、その後の戦争を経て、徳川の支配は固まっていった。長く続く政権に至るまでにも、各段階の判断と負担があった。
前後の流れ
- 1598年
豊臣秀吉が亡くなる。
- 1600年・旧暦九月十五日
関ヶ原で家康方が勝利する。
- 1603年
家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く。
- 1615年
大坂夏の陣で豊臣氏が滅びる。
言葉の意味
- 軍記
- 合戦を語る記録や物語。後世に編まれたものも多い。
- 同時代史料
- 出来事と同じ時代に作られた史料。
- 暦の換算
- 異なる暦で表された同じ日を対応させること。
史料から分かること
九月十五日と十月二十一日は同じ戦いの日だ。
旧暦と現代暦の換算が示される。
暦を示さず日付だけを比較しない。
軍記には後世の編集が含まれる。
図書館が軍記の成立年代を紹介する。
軍記の全記述を同時代の目撃証言としない。
理解を確かめる
答えを選ぶと解説が表示されます。本文や資料を読み返しながら考えてみよう。
参考資料
- 岐阜・戦国時代の資料岐阜県図書館
関ヶ原を語る軍記と、その成立・刊行年代。
- 関ヶ原の戦いと武将たち岐阜県観光連盟
1600年の旧暦と現代暦の日付、秀吉没後の東西の対立。
- 徳川家康公・略年譜久能山東照宮
1600年の関ヶ原での勝利、1603年の将軍就任、1614〜1615年の大坂の陣。家康を祀る施設の年譜として参照し、人物への賛辞は歴史評価として採用しない。

