
巡礼を支えた社会のつながり
1325年に巡礼へ出たイブン・バットゥータは、なぜ旅先で暮らし、働きながら遠くへ進めたのか。信仰と法学の知識が支援者との接点になった。旅の目的は変わり、土地ごとに頼る宮廷や商人との関係も変わった。
法学者が使節として働く
デリーの宮廷は報酬と保護を与えたが、中国への使節という命令も課した。その旅は遭難などで計画が変わり、マルディヴやスリランカへと続いた。一方、東アフリカの記述には交易の富と奴隷化を伴う遠征が現れる。旅人として歓迎された人もいれば、移動を強いられた人もいた。
帰国後に語られた旅
約29年の旅を伝える旅行記は、現地で毎日完成した日記ではない。帰国後に語られ、1355年の筆録が伝えられる。見たこと、聞いたこと、後から整理した記憶が重なり、全ての区間が同じ確かさをもつわけではない。記述には法学者としての関心や、宮廷で働いた経験も表れている。
前後の流れ
- 1325年
巡礼のため出発。
- 1328〜1330年頃
紅海・東アフリカ・アラビア海方面の旅。
- 1334年頃
デリーへ至る時期。
- 1355年
旅行記の筆録。
言葉の意味
- ハッジ
- メッカへのイスラームの巡礼。
- リフラ
- 旅・旅行記を意味する呼称。
- 筆録
- 語られた内容を文字に記録すること。
史料から分かること
同じ信仰や法の知識は見知らぬ場所で人を結ぶ助けになった。ただし旅の人が受けた待遇を、住民全員の待遇と同じにしない。
巡礼、経路、法学者としてのつながり、旅行記の筆録。 船旅とキルワの記述、交易と奴隷化への言及。
史料だけでは分からないこと
待遇の記述は社会全体の平等を示さない。
港の記述には豊かな交換と襲撃・奴隷化への言及が並ぶ。語り手が好意的に紹介する支配者でも、その行為を別に確かめる必要がある。
巡礼、経路、法学者としてのつながり、旅行記の筆録。 船旅とキルワの記述、交易と奴隷化への言及。
史料だけでは分からないこと
本人の評価を被支配者全員の声とみなさない。
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参考資料
- イブン・バットゥータの旅University of California, Berkeley ORIAS
巡礼、経路、法学者としてのつながり、旅行記の筆録。
- 紅海から東アフリカへUniversity of California, Berkeley ORIAS
船旅とキルワの記述、交易と奴隷化への言及。
- デリーからの旅University of California, Berkeley ORIAS
支配者の命令、使節としての役割と危険。
