
紀元前3世紀(在位は前268〜232年ごろ)
アショーカ王
マウリヤ朝の王
広い領域に石の布告を残した王。碑文には戦争への悔恨とともに、宗派への配慮や人々に求める行動が刻まれている。
征服の勝者が石に刻んだ悔恨
征服に勝った王が、殺された人や連れ去られた人への悔恨を石に刻んだ。紀元前3世紀のマウリヤ朝を治めたアショーカは、カリンガ戦争をどう受け止めたかを布告に残す。慈悲を説いた後も王は帝国の支配者であり、従わない人々への警告も布告に残した。
カリンガ戦争の被害を記す大磨崖法勅第13章は、王自身が征服に悔恨を表した文書である。殺された人や連れ去られた人の数も示すが、それを独立した人口調査の結果とは扱えない。重要なのは被害が戦闘員だけでなく、家族や親しい人を失う周囲へ及ぶと述べる点だ。勝利を王の栄光として終わらせない言葉が石に刻まれた。
ダルマを各地へ伝える仕事
布告を伝える官吏を置き、王が出向かない場所にも命令を届けた。宗派への配慮や人への接し方を、臣民と官吏に求めたのである。石に刻まれたのは王の方針であり、各地の住民が実際にどこまで従ったかを一覧にした記録ではない。
布告を担当する官吏が置かれたことは、理想を文章にするだけでなく伝え、実行させる組織が必要だったことを示す。広い領域に石の文書を設ければ、王が直接行かない場所にも命令が届く。ただし、刻まれた理想が全住民の暮らしで実現したと断定はできない。政策としての命令と、実際の運用を示す証拠を分けて考える必要がある。
布告は石柱や岩に刻まれ、各地に残った。帝国の人々が使う言語や文字は一つではなく、王の言葉を地域に届けるには読める形にする仕事が必要だった。現代の翻訳で一続きの文章として読む場合も、もとは別の場所に設けられた資料である。どこで発見され、どの部分が現存するかを見ると、帝国の範囲と情報の伝達を考えられる。
宗派への配慮と帝国の強制力
石柱の断片は、内容だけでなく加工や運搬の技術も伝える。現存する一部の断片から、元の柱と碑文全体の関係を調べることができる。
他の宗派を理由なく悪く言わないよう求める布告は、単に宗教を無くそうとしたものではない。自分の信仰を大切にしながら、他者への攻撃を抑えることを説く。現代の信教の自由と完全に同じ制度として説明するより、王がさまざまな集団を統治する際にどのような協調を望んだかを読む方が、文書の内容に即している。
悔恨を述べた王も帝国の支配者であり続けた。平和を語る文書があることと、軍事力や刑罰がすべて消えたことは違う。第13章には森の人々への警告も含まれる。慈悲の理想と従わせる権力が一つの統治の中に残る点を見ると、戦争をやめた聖人という一語では捉えられない人物像になる。布告の力は、その緊張を自ら残していることにもある。
生涯の転機
- 紀元前268年頃
王位につくとされる。
- 即位後8年
碑文がカリンガ征服を記す。
- 紀元前3世紀中頃
岩や柱に統治の方針を刻ませる。
- 紀元前232年頃
治世が終わるとされる。
後世に残したもの
ダルマを説く命令は、石柱や岩を通して各地へ届いた。宗派への敬意と、従わない人々への警告が同じ布告に残り、理想と強制力を併せ持つ統治を伝える。
参考資料
Columbia University · カリンガ戦争への悔恨、宗派への敬意、官吏への命令。
British Museum · 紀元前3世紀の柱と布告の現存断片。
肖像は時代を参考に描いた創作です。本人の容貌を確定する資料ではありません。