食べ物を確保して同じ場所に住む
三内丸山の人々は海で魚を捕り、森でクリやクルミを採っていた。季節ごとに得られる食べ物が違うため、採れた日に食べ切らずに蓄える。集落には家の跡に加え、食料をしまう穴も残る。紀元前約3900〜2200年の長い暮らしは、狩りや採集とともに、食べ物を保存して調理する日々の営みに支えられていた。
採った木の実は保存し、土器で煮るなどして食べた。残された木の実の殻や魚の骨に、土器と貯蔵穴を照らし合わせると、食べ物を得てから食事にするまでの様子をたどれる。人々は周囲のクリ林も管理していた。身近な資源を利用するだけでなく、住み続ける土地に手を入れていたのである。
竪穴建物は地面を掘り下げて床をつくり、中央に炉を設けていた。柱や屋根には手入れが必要で、住み替えや建て替えも繰り返された。集落の外縁には入口が狭く底の広い貯蔵穴が多い。食料を採っても、保管する設備が傷めば次の季節まで残せない。人々は住居を直すとともに、こうした蓄えの場所も維持していた。
土器の材料となる粘土を掘った穴や、土と灰、壊れた土器が重なる盛土も見つかっている。道具を作る材料の採取から、使い終えた物の処理までを集落の中で行っていた。盛土には水平な層があり、地面をならした可能性もある。家を建てるだけでなく、作業場や捨て場を設けながら土地を使い続けていた。
素材を集め、道具に変える
黒曜石は割ると鋭い縁ができ、刃や矢じりに使える。硬いヒスイに穴を開けて飾りにするには、石を割るのとは違う技術が要った。遺跡からは完成品のほかに原石や加工途中の品も出土している。遠方の素材を運び込み、集落で用途に合う道具や飾りへ仕上げていたことがうかがえる。
漆を塗った木の器や樹皮を編んだ袋も残っている。木や樹皮には石とは異なる加工と手入れが必要で、漆を採って精製するにも知識が要った。湿った低地で木製品が保存されたおかげで、石器や土器以外の技術も確かめられる。食料を入れる器や持ち運ぶ袋、身を飾る玉には、それぞれの役割に合う素材が選ばれていた。
住居と墓と道をつないだ集落
大型掘立柱建物跡には太いクリの柱の一部が残る。この規模の建物を造るには、使う木を選んで運び、柱穴を掘る人手が必要だった。用途は確定していないが、太い柱は大がかりな建設が行われた証拠である。住居とは別に共同で使ったと考えられる建物もあり、家族ごとの暮らしを超えた活動がうかがえる。
同じ土地で暮らし続けるため、人々は住む場所と食料をしまう場所、物を捨てる場所を分けていた。集落は約1700年にわたり姿を変えている。現地の復元建物がすべて同時に並んでいたわけではない。時期ごとの住居や道具づくりに加え、蓄えや土地の手入れ、死者を葬る場所にも、定住を支えた営みが残っている。
前後の流れ
- 紀元前約3900年
集落の長い営みが始まる。
- 紀元前約2200年
この遺跡の集落生活が終わる時期。
- 1992年
発掘調査で大規模な集落跡が見つかる。
言葉の意味
- 貯蔵穴
- 食料などを蓄えたと考えられる地面の穴。
- 黒曜石
- 鋭く割れる火山ガラス。産地を調べると移動の手がかりになる。
- 復元
- 残った痕跡から失われた姿を組み立てること。
史料から分かること
遠方との交流があった。
産地の異なる黒曜石やヒスイが出土する。
誰が何と交換したかまで、この材料だけでは分からない。
集落は一時的な野営地ではない。
住居、墓、道路、貯蔵施設が重なって残る。
発掘された全遺構が同時に使われたわけではない。
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