一つの墓が地域の景観を変える
5世紀ごろの百舌鳥では、一つの巨大な墓のために多くの人と材料が集められた。大仙陵古墳の造営では濠と斜面を整え、粘土から埴輪を作って焼く必要もあった。完成した墳丘は埋葬施設を覆い、広い土地を占めて周囲の人々の目に入る。墓を造らせた人物の政治的な力を示す役割もあったと考えられる。
墳丘は段状に築かれ、斜面を整えて大きな形に仕上げられた。その高さと輪郭は遠くからも分かり、周辺に暮らす人々は日々その姿を目にした。埋葬施設は地下や墳丘の中に隠れていても、地上には巨大な墓が見える。墓の大きさや形を通じて、死者の地位やそれを支えた政治力を示したと考えられる。
土を運び、埴輪を並べる
墓の工事では土を掘って運び、斜面を整える人々が働いた。埴輪にも粘土の採取から成形、焼成までの工程がある。これらを同じ造営事業として進めるには、人々の役割を分け、作業をまとめる力が必要だった。当時の工期を現代の機械による計算で決めることはできないが、完成した墓から必要な仕事の種類はたどれる。
百舌鳥には前方後円墳のほか、円墳や方墳もある。近くにある墓でも形や規模が違い、有力者同士の立場や関係を考える手がかりになる。造営時期を比べると、同じ地域が長く墓づくりの場となったことも分かる。大仙陵古墳も、周辺の大小の墓が築かれた歴史の中に位置づけられる。
堺市博物館の解説によれば、大きな石棺の材料は兵庫県から運ばれた。周囲の土を掘って盛る作業とは別に、遠方で石を調達し、届ける経路と人手が要った。墳丘の寸法だけでは捉えにくいが、造営の準備は遠くの土地にも及んでいた。近隣の労力と離れた場所の材料を、一つの墓へ集めていたのである。
1872年の発見記録には甲冑や鉄刀、ガラスの器などが記されている。埋め戻された品もあるため、現在の復元が当時の図を頼りにする場合もある。土の埴輪と金属の武具、ガラス器には、それぞれ異なる技術や材料が必要だった。こうした品が葬送の場へ集められたことは分かるが、現物を観察できる品と記録でしか確かめられない品は区別する必要がある。
陵の名前と埋葬者をどう考えるか
大仙陵古墳は宮内庁が仁徳天皇陵として管理している。ただし、その名称だけで築造年や埋葬者が考古学的に確定するわけではない。年代は土器や埴輪をほかの遺跡と比較して推定する。管理上の名と発掘資料から分かることを分ければ、埋葬者が分からなくても、造営の技術や当時の社会を詳しく調べられる。
築造後も濠は改修され、周辺の土地の使い方は変わった。現在の空中写真は全体の形をつかみやすいが、5世紀の環境をそのまま示すものではない。今の景観に後世の変化があることを踏まえ、墳丘や周辺の墓、出土品を比べる。そうすることで、墓の名だけでなく、人と材料を集めた社会の姿も調べられる。
前後の流れ
- 4世紀末〜5世紀初めごろ
百舌鳥古墳群の造営が始まる時期。
- 5世紀ごろ
大仙陵古墳が築かれたと考えられる。
- 1872年
前方部で石室、石棺、副葬品が見つかり図で記録される。
言葉の意味
- 前方後円墳
- 方形部と円形部を組み合わせた墳丘。
- 埴輪
- 墳丘上などに置いた素焼きの土製品。
- 被葬者
- 墓に埋葬された人。管理名称から自動的に確定しない。
史料から分かること
理解を確かめる
答えを選ぶと解説が表示されます。本文や資料を読み返しながら考えてみよう。
参考資料
- 仁徳天皇陵古墳百科堺市博物館
5世紀の年代、規模、前方後円墳と政治的地位、周辺古墳。
- 古墳堺市
百舌鳥古墳群と大仙陵古墳の規模。
- 古墳データベース・百舌鳥古墳群堺市
百舌鳥古墳群の造営開始を4世紀末〜5世紀初めとする年代。
