
1412年ごろ〜1431年
ジャンヌ・ダルク
百年戦争期の人物
1429年のオルレアン解放とシャルル7世の戴冠に関わった。捕縛後の裁判で処刑され、後の再審では判決が覆された。
包囲解除から王の戴冠へ
1429年、オルレアンの包囲が解かれ、シャルル7世はランスで戴冠した。ジャンヌが関わったのは、一つの勝利と、その先で王の正統性を示す進軍だった。イングランドとの戦争にフランス内部の対立も重なり、誰を王と認めるか自体が争われていた。
彼女は神から使命を受けたと語り、シャルルに会って軍事行動へ関わった。この信仰の言葉は行動を理解する資料だが、超自然の出来事を歴史学で確認したことにはならない。
1429年のパリの記録には、ジャンヌを描いたとされる小さな絵が残る。描いたクレマン・ド・フォカンベルグは本人を見て描いたわけではない。話題になった女性を、聞いた情報と想像から記録の余白へ置いた。そのため服や顔を実物の証拠にすることはできないが、彼女の活動が離れた都市へ伝わっていたことを示す手がかりになる。
オルレアンの包囲解除とランスへの道
1429年にオルレアンの包囲が解かれ、その後シャルル7世がランスで戴冠した。戦いと戴冠をつなぐことは、王位の正統性を示すために重要だった。
ランスでの戴冠は、戦場の勝利とは異なる王位の正統性を示した。1429年7月、シャルル7世が儀礼を行う場所へ到達するには、途中の道と都市を確保する軍事行動が必要だった。ジャンヌの働きは兵の士気と行動に影響し、王の儀礼へつながる進軍を支えた。ただしオルレアンの包囲解除と戴冠によって、百年戦争そのものが終わったわけではない。
包囲を解く軍には、他の指揮官と兵士もいた。ジャンヌの言葉と行動が士気に作用する一方、進軍には兵と物資、通過する都市の確保が要る。ランスへの到達は、信仰を語る人物と軍の実務が一つの行程で結びついた結果だった。
捕縛と処刑の後に覆った判決
1430年に捕らえられたジャンヌは、1431年にルーアンで裁判を受け、処刑された。司教ピエール・コーションらは、神の声を聞いたという主張や男性の衣服を着ることを審理で問題にした。敵側に拘束された人物への宗教裁判には政治が関わり、質問する側が何を告発へ採用するかによって記録の形も決まった。
1431年の処刑後、1456年には裁判を再検討する過程で多くの証言が集められた。二つの手続きは、同じ出来事を異なる政治的な状況から扱う。後の証言も時間を隔てており、何もかも確かな録音として読むわけにはいかない。最初の告発と後の再検討を比べることで、資料が残った理由と、人々が評価を変えた過程を追える。
ジャンヌは後の時代に宗教、国家、芸術の象徴となった。記念像や肖像は、その時代が重視した勇気や信仰を表す。本人の短い生涯が長い戦争の一部であったことと、後世の象徴として大きくなったことを分けたい。包囲を解くために進軍した人物が、処刑された後には国家や宗教の象徴となった。その生涯と後世の英雄像には、それぞれ別の歴史がある。
生涯の転機
- 1412年頃
生まれる。
- 1429年5月
オルレアンの包囲が解かれる。
- 1429年7月
シャルル7世の戴冠に関わる。
- 1430年
捕らえられる。
- 1431年
ルーアンで処刑される。
後世に残したもの
1431年の有罪判決と処刑の後、1456年には裁判が再検討された。短い生涯をめぐる記録には、軍事、信仰、王権と、判断を覆そうとした人々の政治が残った。
参考資料
Archives nationales, France · オルレアン解放、戴冠、本人を見ずに描いた同時代の図像。
Archives départementales du Loiret · 1429年の記録と1804年の記念品の違い。
Ministère de la justice · 戦争の政治背景、ランスでの戴冠、コーションの審理、1431年と1456年の裁判の違い。
肖像は時代を参考に描いた創作です。本人の容貌を確定する資料ではありません。
